日本ではとりあえず実験してみて様子を見るという文化が根強くある。
そのため、実験をしていない人は研究をしていないというように
辺に曲がって捉えられることもある。
たしかに、実験をする上で、装置と触れ合う時間は重要である。
装置とよく触れ合うことで装置と友達になることができる・・・
というわけではなく、
装置の癖や特徴を無意識につかむことができるようになり、
装置の性能を引き出すことができるようになる。
それに、実際に手を動かすことで頭だけで考えるよりも
ずっと具体的に物事をイメージすることができるようになり、
問題がクリアになる。
そして、実験をしているからこそ見えてくる
新しい研究というものもある。
しかし、アメリカ的な実験は
頭の中で考えた仮説を検証するためにあるのかなと思う。
もちろん仮説を立てることは大事だ。
仮説が大きな指針に成ることは間違いない。
しかし、仮説にこだわっていては
新しい研究の種を見逃すことになる。
これは歴史的にくりかえされていることで、
ある人が周りの人が見過ごしてきたことで論文を書き
認められたという例は後を絶たない。
仮説から外れて実験をするというのは
ずいぶん時間がかかることだけど、
ものすごく大切なことだと思う。
少なくとも、新しい道を切り開くことになる。
こういうことをするためには実験装置を長期間触っている必要があり、
アメリカの共用装置では難しい面もあるなと思った。
もちろんこうした実験は時間もかかるし
時間をかけた割には業績としては小さく扱われることもあると思うし、
最初は得体の知れないことだから解釈にも時間がかかる。
でも、誰かがしなければならない重要なことであるケースが多いと思う。
論文主体の判断基準はそうした地味だけど大事な研究の芽を
間違いなくつんでしまっている。
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