「狩猟民族と農耕民族 その1」はこちら→ http://ucla-2009.blogspot.com/2009/04/1.html
ここで狩猟と農耕に必要なことを書く。
個人的に実家が畑をやっているので
農耕に必要なことはそれなりにわかる。
農耕というものは
植物を天気や植物の成長度合いにあわせて育てていくものです。
その際に必要となることは、
今までの経験則や周りの農作名人に教えをこうことで、
より良い作物を収穫するためのデータベースを構築することです。
植物は動きませんし問題があっても
一刻を争うということはほとんどありませんので、
より確実な対応をする必要があります。
ただし、植物は手遅れになると回復することが難しいので、
時間よりも正確な対応を求められます。
また、植物の成長は長期間にわたるため、
時々刻々とパラメータの種類も度合いも変化してしまいますし、
それぞれの個体差があってひとつの正しい答えというものがあるのかわからないため
さらに複雑になっています。
そのため経験に基づくデータベースが適しています。
もちろん、ある程度、論理的に考えることもできないことはないんでしょうが、
考えなければならない問題(パラメータ)が沢山ありすぎて
正確な判断をすることは難しいです。
おそらく、子供を育てる感じなのではないでしょうか。
(子育て経験なしですが・・・)
一方、狩猟というものは
相手の行動を計算して相手の逃げ道を少なくしてしとめるものです。
その際に必要となるのは、
目標物を発見する→目標物のしとめ方を考える→目標物の逃げ道を考える→・・・
という具合に、論理的に目標物をしとめる可能性を高める思考が必要となります。
狩猟の相手は動物であり、
一瞬一瞬が勝負であるということを考えると
相手の行動を論理的に推測して先回りして行動することで
仮に相手が推測と異なる行動をしたとしても、
再びそこから論理的に推測することで
相手の行動に即座に対応できます。
これに農耕で有効なデータベースによる対応をすると
正確な判断をするために最適情報を探しているうちに
動物は動いてしまい条件が変わります。
すると、再び条件を変えて最適情報を探すことになり、
そのうち動物は逃げていってしまいます。
また、データベースにない状況に遭遇すると
対応することができず、
窮鼠猫をかむという予想もつかない状況では役に立ちません。
そのため、状況状況に応じて短時間で答えを出せる論理的思考が適しています。
もちろん、目標物を発見するまでにデータベースに頼ることもありますし、
狩猟の経験というものは大きく影響するとは思いますが、
狩猟の最中にデータベースに基づいた狩猟というのは合理的ではありません。
おそらく、スポーツのような感じではないでしょうか。
(スポーツも最近していませんが。)
こう考えると、
農耕民族はデータベース思考に慣れ親しんでおり、
狩猟民族は論理的思考に慣れ親しんでいるといえるんではないでしょうか。
つづく
2009年4月15日水曜日
狩猟民族と農耕民族 その1
日本に一時帰国しているときとアメリカに来てから
なぜかこのテーマについて考えていたので
少し記録しておこうと思う。
人類の祖先はサルだったとすると
最初は天敵から逃げて隠れて
木の実なんかを集めて食べていたんだと思う。
でも、次第に道具を使えるようになって、
天敵から身を守れるようになり、
同時に食べ物の獲得方法として採集に加え狩猟という選択肢が増えた。
ここで、狩猟民族と採集民族(後の農耕民族)に分かれる大きな分岐点があった。
僕が考えるに狩猟民族になるか採集民族になるかの背景には
気候が大きく関係していると思う。
熱帯、温帯、冷帯、寒帯にわけると、
熱帯には植物が潤沢に存在していて
温帯には植物がそれなりに存在していて
冷帯には植物が多少存在していて、
寒帯には植物が余り存在していないということになる。
植物から採集によって得られる食べ物の量は
熱帯>温帯>冷帯>寒帯ということになる。
食べ物を手に入れるという理由では
より生命の危険の少ない採集を選択するほうが賢い選択だと思う。
そのため、人類の祖先はできることなら楽な採集で食べ物をまかないたかったと思う。
つまり、熱帯や温帯は比較的労力をはらわなくても食べ物が手に入ったのだと思う。
(食べ物を確保する労力を使わない代わりに、文明を発展させることに労力を使った。)
しかし、冷帯や寒帯のように植物の少ない地域では
採集だけで生き延びることが難しく狩猟をせざるを得なかったのだと思う。
そして、それぞれがより容易に食べ物を手に入れるために
狩猟民族は武器の開発や戦略を考え
採集民族は農耕技術の開発や統治を考えた。
このように生活の場所により、
それぞれの人たちは違う文化を持つようになった。
そして、その文化の違いが今の考え方に大きく影響を与えている(と思う)。
つづく
P.S.
狩猟民族だから狩猟しかしないとか農耕民族だから農耕しかしないということはないと思う。
要は割合の問題。
P.S.2
それから狩猟民族の方が生死に常に瀕してきただろうから、生きることに貪欲だと思う。
なぜかこのテーマについて考えていたので
少し記録しておこうと思う。
人類の祖先はサルだったとすると
最初は天敵から逃げて隠れて
木の実なんかを集めて食べていたんだと思う。
でも、次第に道具を使えるようになって、
天敵から身を守れるようになり、
同時に食べ物の獲得方法として採集に加え狩猟という選択肢が増えた。
ここで、狩猟民族と採集民族(後の農耕民族)に分かれる大きな分岐点があった。
僕が考えるに狩猟民族になるか採集民族になるかの背景には
気候が大きく関係していると思う。
熱帯、温帯、冷帯、寒帯にわけると、
熱帯には植物が潤沢に存在していて
温帯には植物がそれなりに存在していて
冷帯には植物が多少存在していて、
寒帯には植物が余り存在していないということになる。
植物から採集によって得られる食べ物の量は
熱帯>温帯>冷帯>寒帯ということになる。
食べ物を手に入れるという理由では
より生命の危険の少ない採集を選択するほうが賢い選択だと思う。
そのため、人類の祖先はできることなら楽な採集で食べ物をまかないたかったと思う。
つまり、熱帯や温帯は比較的労力をはらわなくても食べ物が手に入ったのだと思う。
(食べ物を確保する労力を使わない代わりに、文明を発展させることに労力を使った。)
しかし、冷帯や寒帯のように植物の少ない地域では
採集だけで生き延びることが難しく狩猟をせざるを得なかったのだと思う。
そして、それぞれがより容易に食べ物を手に入れるために
狩猟民族は武器の開発や戦略を考え
採集民族は農耕技術の開発や統治を考えた。
このように生活の場所により、
それぞれの人たちは違う文化を持つようになった。
そして、その文化の違いが今の考え方に大きく影響を与えている(と思う)。
つづく
P.S.
狩猟民族だから狩猟しかしないとか農耕民族だから農耕しかしないということはないと思う。
要は割合の問題。
P.S.2
それから狩猟民族の方が生死に常に瀕してきただろうから、生きることに貪欲だと思う。
最近の日本で女性が元気といわれる理由
日本は最もうまくいった社会主義とよくいわれている。
それは、年功序列のような安定をめざした横並びシステムを採用しているからなのかなと思う。
しかし、こういう風になると、本当の社会主義と同じで
若者が活力を失ってしまう。
http://ucla-2009.blogspot.com/2009/04/blog-post_14.html
企業の成長曲線を国にそのまま当てはめると、
戦後が創業期で、高度経済成長期が成長期で、それ以降が安定期で、
そろそろ衰退期に入っているような気がする。
こういうときは新しい産業の創出が不可欠で、
そのときに若者の活力がないのは大きな問題だと思う。
特に大きな問題に面しているのは男性だと思う。
男性はもともと家を守るため狩をしてきました。
狩をするためには指揮命令系統がしっかりしていて
とっさの自体に集団として動くことが必要となります。
そのため、男性は縦の社会での活動に最適化されています。
狩自体が動物との競争であるのに加え、
男性はより優位に立つためには縦の社会でうえに上る必要があり、
そのため競争によってモチベーションを得ます。
しかし、現在の日本のシステムは競争をかなり排除したシステムになっており、
男性がモチベーションを維持することが難しくなっています。
一方、女性はというと隣近所と仲良くすることで社会をまとめてきました。
この場合、女性に必要なのは協調性や安定性であり
その中で工夫してよりよい生活を目指します。
つまり、横の社会での活動に最適化されています。
そのため、女性がモチベーションを得るためには競争は必要なく
安定した状況の中での活動に適しています。
こういうことを考えてみると、
現在男性よりも女性のほうが元気だという声を良く聞きますが、
競争のない安定を目指した社会では
狩をしてきた競争が不可欠な男性よりも、
安定した状況下を好む女性の方が
元気になってもなんら不思議ではないと思います。
P.S.
こういうことを考えると、安定したシステムを好む日本人は
世界的に見ると女性的なのかもしれませんね。
・・・、というか人間は安定を常に求めてきたんですよね。
P.S.2
もちろん競争を好む女性もいれば、安定を好む男性もいます。
それは、年功序列のような安定をめざした横並びシステムを採用しているからなのかなと思う。
しかし、こういう風になると、本当の社会主義と同じで
若者が活力を失ってしまう。
http://ucla-2009.blogspot.com/2009/04/blog-post_14.html
企業の成長曲線を国にそのまま当てはめると、
戦後が創業期で、高度経済成長期が成長期で、それ以降が安定期で、
そろそろ衰退期に入っているような気がする。
こういうときは新しい産業の創出が不可欠で、
そのときに若者の活力がないのは大きな問題だと思う。
特に大きな問題に面しているのは男性だと思う。
男性はもともと家を守るため狩をしてきました。
狩をするためには指揮命令系統がしっかりしていて
とっさの自体に集団として動くことが必要となります。
そのため、男性は縦の社会での活動に最適化されています。
狩自体が動物との競争であるのに加え、
男性はより優位に立つためには縦の社会でうえに上る必要があり、
そのため競争によってモチベーションを得ます。
しかし、現在の日本のシステムは競争をかなり排除したシステムになっており、
男性がモチベーションを維持することが難しくなっています。
一方、女性はというと隣近所と仲良くすることで社会をまとめてきました。
この場合、女性に必要なのは協調性や安定性であり
その中で工夫してよりよい生活を目指します。
つまり、横の社会での活動に最適化されています。
そのため、女性がモチベーションを得るためには競争は必要なく
安定した状況の中での活動に適しています。
こういうことを考えてみると、
現在男性よりも女性のほうが元気だという声を良く聞きますが、
競争のない安定を目指した社会では
狩をしてきた競争が不可欠な男性よりも、
安定した状況下を好む女性の方が
元気になってもなんら不思議ではないと思います。
P.S.
こういうことを考えると、安定したシステムを好む日本人は
世界的に見ると女性的なのかもしれませんね。
・・・、というか人間は安定を常に求めてきたんですよね。
P.S.2
もちろん競争を好む女性もいれば、安定を好む男性もいます。
2009年4月14日火曜日
活気は若者が作る
アジアは儒教の思想が強いので、
日本同様中国も年功序列と思っていたのですが、
最近の中国はそうでもないらしい。
数年前から大手企業の保護をやめ
大手企業が経営破たんすることを容認した結果、
中小企業を若い世代が作り上げ、
彼らが今の中国を支えているかららしい。
実はこれが中国の活力ある経済成長につながっているというのだ。
というのも、若い世代の経営は年功序列のような安定を求めたものではなく、
能力が認められるやりがいを求めた経営のようで
一年目の初任給はそれほどなくても、2年目から給料5倍というようなことも良く見かけるとのこと。
確かに、年功序列な会社が少ない状況ならこういう制度にのっとっていくありません。
若者はこういうある意味ばくち的要素があるほうが頑張るし
やればやった分だけの見返りが得られれば、モチベーションもあがるというわけです。
(もちろん、確実に格差は開くわけですが、それは能力というよりは努力の部分のような気もします。)
これに対して、日本は年功序列な大企業が幅を利かせており、
優秀な若者のほとんどは大企業に入ります。
その大企業では年に少しずつ成果に関係なく給料が増えていくようです。
これだと、一生懸命やっても手を抜いてもリターンは変わりません。
そして、大企業は潤沢な資金でチャレンジングなことをすることができるはずなのに
最近は経営の効率化やコスト削減ということでハイリスクなことはしなくなりました。
こういう状況だと夢や情熱を生み出す仕事はなくなり現実的な仕事ばかりになります。
こうなるとやりたいという目標を若者は失ってしまいます。
若者はモチベーションを失ってしまいます。
問題は若者にとどまりません。
そもそも大企業というのは企業の成長曲線に当てはめると
創業期、成長期、成熟期、衰退期でいうところの
成熟期-衰退期にあると考えても差し支えないと思います。
そんな状況にある大企業がチャレンジングなことをしないとなると
大企業は衰退の道を進むしかないわけです。
さらに、このような状況で中国は人材を欲しており、
今の不況下の日本から日本を支えてきた老獪な経営者や技術者が
中国に吸収されていっているようなんですね。
産業の発展においてこういった培われてきたものは不可欠なのに
いろいろな日本が培ってきたものは中国が継承している。
(誰も継承しないよりはずっといいですが・・・)
若者の活力低下 → 将来における期待
大企業の現状 → 現状
技術の喪失 → 過去における蓄積
日本は大丈夫なのか?と思ってしまう。
もちろん、どれも今から対応して遅くないと思うけど、
今の日本に必要なのは若者の活気だと思う。
P.S.
もちろん極端な能力主義がいいといっているわけではありません。
ただ、最近の日本は全体的に極端に安定を求めているのが問題ではないかと思います。
P.S.2
ただでも若者人口へっているなら、そんな若者たちが夢見て生きられる世の中を作りたいですね。
日本同様中国も年功序列と思っていたのですが、
最近の中国はそうでもないらしい。
数年前から大手企業の保護をやめ
大手企業が経営破たんすることを容認した結果、
中小企業を若い世代が作り上げ、
彼らが今の中国を支えているかららしい。
実はこれが中国の活力ある経済成長につながっているというのだ。
というのも、若い世代の経営は年功序列のような安定を求めたものではなく、
能力が認められるやりがいを求めた経営のようで
一年目の初任給はそれほどなくても、2年目から給料5倍というようなことも良く見かけるとのこと。
確かに、年功序列な会社が少ない状況ならこういう制度にのっとっていくありません。
若者はこういうある意味ばくち的要素があるほうが頑張るし
やればやった分だけの見返りが得られれば、モチベーションもあがるというわけです。
(もちろん、確実に格差は開くわけですが、それは能力というよりは努力の部分のような気もします。)
これに対して、日本は年功序列な大企業が幅を利かせており、
優秀な若者のほとんどは大企業に入ります。
その大企業では年に少しずつ成果に関係なく給料が増えていくようです。
これだと、一生懸命やっても手を抜いてもリターンは変わりません。
そして、大企業は潤沢な資金でチャレンジングなことをすることができるはずなのに
最近は経営の効率化やコスト削減ということでハイリスクなことはしなくなりました。
こういう状況だと夢や情熱を生み出す仕事はなくなり現実的な仕事ばかりになります。
こうなるとやりたいという目標を若者は失ってしまいます。
若者はモチベーションを失ってしまいます。
問題は若者にとどまりません。
そもそも大企業というのは企業の成長曲線に当てはめると
創業期、成長期、成熟期、衰退期でいうところの
成熟期-衰退期にあると考えても差し支えないと思います。
そんな状況にある大企業がチャレンジングなことをしないとなると
大企業は衰退の道を進むしかないわけです。
さらに、このような状況で中国は人材を欲しており、
今の不況下の日本から日本を支えてきた老獪な経営者や技術者が
中国に吸収されていっているようなんですね。
産業の発展においてこういった培われてきたものは不可欠なのに
いろいろな日本が培ってきたものは中国が継承している。
(誰も継承しないよりはずっといいですが・・・)
若者の活力低下 → 将来における期待
大企業の現状 → 現状
技術の喪失 → 過去における蓄積
日本は大丈夫なのか?と思ってしまう。
もちろん、どれも今から対応して遅くないと思うけど、
今の日本に必要なのは若者の活気だと思う。
P.S.
もちろん極端な能力主義がいいといっているわけではありません。
ただ、最近の日本は全体的に極端に安定を求めているのが問題ではないかと思います。
P.S.2
ただでも若者人口へっているなら、そんな若者たちが夢見て生きられる世の中を作りたいですね。
2009年4月12日日曜日
正論よりもモチベーションをあげることへの意識
うちの教授は学生のモチベーションをあげることがとても上手だ。
ちょっとしたことにもすごい、素晴らしい、素敵だって感じでほめてあげる。
それを仮に学生がわかっていたとしても、かなり心地よい。
僕もそういう反応をもらって、日本での不備を突く議論との違いに
思わず良い気分になったことを覚えている。
これは、もちろんどのような環境にいたかということが重要だと思うけど、
僕はどうも議論するとき、相手の意見の不備を突くということを自然とするようになった。
これはおかしいんじゃないかとか
これはどうなっているんだとか
わからない部分だけを指摘するようになった。
こういった指摘は研究者として必要な部分かもしれないが、
指摘される側は否定されている気分になるので
やる気がそがれてしまう。
何をするにもやる気というものは
最も大事なことなのにその部分がなくなってしまうのは
かなり大きな痛手ではないだろうか。
それよりも、相手をまずモチベートしてあげて
それから相手の主張でわからないことを理解しようとする姿勢で
指摘していったほうがずいぶん与える感覚が変わってくる。
この辺は今の研究室が人材不足であるためにモチベートの方法はしっかり考えているのだと思う。
相手をモチベートするためには、もう少しやり方を変えた方がいいなと思った。
ちょっとしたことにもすごい、素晴らしい、素敵だって感じでほめてあげる。
それを仮に学生がわかっていたとしても、かなり心地よい。
僕もそういう反応をもらって、日本での不備を突く議論との違いに
思わず良い気分になったことを覚えている。
これは、もちろんどのような環境にいたかということが重要だと思うけど、
僕はどうも議論するとき、相手の意見の不備を突くということを自然とするようになった。
これはおかしいんじゃないかとか
これはどうなっているんだとか
わからない部分だけを指摘するようになった。
こういった指摘は研究者として必要な部分かもしれないが、
指摘される側は否定されている気分になるので
やる気がそがれてしまう。
何をするにもやる気というものは
最も大事なことなのにその部分がなくなってしまうのは
かなり大きな痛手ではないだろうか。
それよりも、相手をまずモチベートしてあげて
それから相手の主張でわからないことを理解しようとする姿勢で
指摘していったほうがずいぶん与える感覚が変わってくる。
この辺は今の研究室が人材不足であるためにモチベートの方法はしっかり考えているのだと思う。
相手をモチベートするためには、もう少しやり方を変えた方がいいなと思った。
実験は仮説の検証だけ?
日本ではとりあえず実験してみて様子を見るという文化が根強くある。
そのため、実験をしていない人は研究をしていないというように
辺に曲がって捉えられることもある。
たしかに、実験をする上で、装置と触れ合う時間は重要である。
装置とよく触れ合うことで装置と友達になることができる・・・
というわけではなく、
装置の癖や特徴を無意識につかむことができるようになり、
装置の性能を引き出すことができるようになる。
それに、実際に手を動かすことで頭だけで考えるよりも
ずっと具体的に物事をイメージすることができるようになり、
問題がクリアになる。
そして、実験をしているからこそ見えてくる
新しい研究というものもある。
しかし、アメリカ的な実験は
頭の中で考えた仮説を検証するためにあるのかなと思う。
もちろん仮説を立てることは大事だ。
仮説が大きな指針に成ることは間違いない。
しかし、仮説にこだわっていては
新しい研究の種を見逃すことになる。
これは歴史的にくりかえされていることで、
ある人が周りの人が見過ごしてきたことで論文を書き
認められたという例は後を絶たない。
仮説から外れて実験をするというのは
ずいぶん時間がかかることだけど、
ものすごく大切なことだと思う。
少なくとも、新しい道を切り開くことになる。
こういうことをするためには実験装置を長期間触っている必要があり、
アメリカの共用装置では難しい面もあるなと思った。
もちろんこうした実験は時間もかかるし
時間をかけた割には業績としては小さく扱われることもあると思うし、
最初は得体の知れないことだから解釈にも時間がかかる。
でも、誰かがしなければならない重要なことであるケースが多いと思う。
論文主体の判断基準はそうした地味だけど大事な研究の芽を
間違いなくつんでしまっている。
そのため、実験をしていない人は研究をしていないというように
辺に曲がって捉えられることもある。
たしかに、実験をする上で、装置と触れ合う時間は重要である。
装置とよく触れ合うことで装置と友達になることができる・・・
というわけではなく、
装置の癖や特徴を無意識につかむことができるようになり、
装置の性能を引き出すことができるようになる。
それに、実際に手を動かすことで頭だけで考えるよりも
ずっと具体的に物事をイメージすることができるようになり、
問題がクリアになる。
そして、実験をしているからこそ見えてくる
新しい研究というものもある。
しかし、アメリカ的な実験は
頭の中で考えた仮説を検証するためにあるのかなと思う。
もちろん仮説を立てることは大事だ。
仮説が大きな指針に成ることは間違いない。
しかし、仮説にこだわっていては
新しい研究の種を見逃すことになる。
これは歴史的にくりかえされていることで、
ある人が周りの人が見過ごしてきたことで論文を書き
認められたという例は後を絶たない。
仮説から外れて実験をするというのは
ずいぶん時間がかかることだけど、
ものすごく大切なことだと思う。
少なくとも、新しい道を切り開くことになる。
こういうことをするためには実験装置を長期間触っている必要があり、
アメリカの共用装置では難しい面もあるなと思った。
もちろんこうした実験は時間もかかるし
時間をかけた割には業績としては小さく扱われることもあると思うし、
最初は得体の知れないことだから解釈にも時間がかかる。
でも、誰かがしなければならない重要なことであるケースが多いと思う。
論文主体の判断基準はそうした地味だけど大事な研究の芽を
間違いなくつんでしまっている。
日本人は操作されやすい
少しの間、日本に一時帰国していたときのことを書きたいと思う。
というのも、一時帰国することでアメリカと日本の比較を少しすることができ
そこから、ちょっとした考えが生まれたからだ。
日本人の合言葉的標語に、
勤勉は美徳だというものがある。
この言葉は小さいときから今まで
幾度となく聴いてきた言葉で、
多少なりとも日本人の美徳として考えてきた面があった。
そして、それはある意味正しいと思うし、
ある意味よくないなと思った。
この標語のおかげで日本人は仕事に人生をつぎ込み
高度経済成長期を生み出すことができたわけであるが、
今この標語にしがみついている日本人にひずみが生じてきている。
日本の経済成長以降
欧米各国から日本は新しい価値を生み出せない
物まねの国と揶揄されている。
この言葉に対して、
どうにかしてクリエイティブな人材を作り出そうと
躍起になってどうすればクリエイティブな人材を作れるかを調査し始めた。
そして、欧米にあって日本にないものを沢山沢山取り入れ
その取り入れたものを持ち前の勤勉さで取り込んだ。
その結果、クリエイティブな人材は育ったのであろうか?
断言はできないけど、おそらくクリエイティブな人材は育っていない。
足りないものを積極的に取り入れたにもかかわらずだ。
この点について日本人は大きな間違いをしている。
それはクリエイティブな人材には勤勉が必要であるという点だ。
勤勉をこよなく愛するがゆえに、過剰に労働時間を増やしている。
その結果、物事を考える時間を圧迫してしまい、
誰かが言ったことを鵜呑みにしたり、目先のことに何も考えずに反応してしまう。
これでは、簡単に日本人は操られてしまうではないか。
クリエイティブ云々よりも、もっと大きな問題だと思う。
さて、ここでいう物事を考える時間というのは
そのことを常に頭に置いた状態でほかの事をするということである。
この説明がわかりやすいかはわからないが、
僕の経験上、講義や講演を聴きながら関係ないことを考えているときほど
クリエイティブな考えが生まれる。
おそらく、講義や講演から刺激をもらいながら別のことを考えることで、
別の視点から考えたり、別のことと融合させたりと
ひとつのことに集中していては見つけられない考えを探り当てることができるのだと思う。
ここではクリエイティブと書いたが、考える時間を持てば
自分が触れる情報が正しいかどうかということを判断する余裕も生まれてくることになる。
その結果、物事を鵜呑みにせずその正否を考えるようになると思う。
この時間を持たずに、仕事にのめりこめば
その仕事に関して極端を極めてしまうんだとおもう。
もちろん、その仕事から派生するクリエイティブなことに気づける可能性は低くなる。
逆に労働時間の割合を減らして考える時間を持てば、
新しいクリエイティブな問題を見つけ出すことにつながるんだと思う。
その点、アメリカにいると西欧の人はやはり自分の中で
仕事をするならここまでというのがしっかりと線引きされている。
もちろん、ある程度の仕事の時間を確保することは当然だけど、
そこに別のエッセンスを加えるために
意識的か無意識的に別のことをする時間を確保している。
日本が成長するには不可欠であった美徳が
さらなる日本の成長にはマイナスであるという皮肉だと思う。
こういうのも政治的策略なのかなと思ったり、思わなかったり。
P.S.
なんとなくどこかをモデルにしてそれを取り入れて発展した国というのは
こういう問題にいつかはぶつかるのかなと思う。
つまり、大きく発展したアジア諸国や中国もいつかは似たような問題にぶつかるのかもしれないと思う。
というのも、一時帰国することでアメリカと日本の比較を少しすることができ
そこから、ちょっとした考えが生まれたからだ。
日本人の合言葉的標語に、
勤勉は美徳だというものがある。
この言葉は小さいときから今まで
幾度となく聴いてきた言葉で、
多少なりとも日本人の美徳として考えてきた面があった。
そして、それはある意味正しいと思うし、
ある意味よくないなと思った。
この標語のおかげで日本人は仕事に人生をつぎ込み
高度経済成長期を生み出すことができたわけであるが、
今この標語にしがみついている日本人にひずみが生じてきている。
日本の経済成長以降
欧米各国から日本は新しい価値を生み出せない
物まねの国と揶揄されている。
この言葉に対して、
どうにかしてクリエイティブな人材を作り出そうと
躍起になってどうすればクリエイティブな人材を作れるかを調査し始めた。
そして、欧米にあって日本にないものを沢山沢山取り入れ
その取り入れたものを持ち前の勤勉さで取り込んだ。
その結果、クリエイティブな人材は育ったのであろうか?
断言はできないけど、おそらくクリエイティブな人材は育っていない。
足りないものを積極的に取り入れたにもかかわらずだ。
この点について日本人は大きな間違いをしている。
それはクリエイティブな人材には勤勉が必要であるという点だ。
勤勉をこよなく愛するがゆえに、過剰に労働時間を増やしている。
その結果、物事を考える時間を圧迫してしまい、
誰かが言ったことを鵜呑みにしたり、目先のことに何も考えずに反応してしまう。
これでは、簡単に日本人は操られてしまうではないか。
クリエイティブ云々よりも、もっと大きな問題だと思う。
さて、ここでいう物事を考える時間というのは
そのことを常に頭に置いた状態でほかの事をするということである。
この説明がわかりやすいかはわからないが、
僕の経験上、講義や講演を聴きながら関係ないことを考えているときほど
クリエイティブな考えが生まれる。
おそらく、講義や講演から刺激をもらいながら別のことを考えることで、
別の視点から考えたり、別のことと融合させたりと
ひとつのことに集中していては見つけられない考えを探り当てることができるのだと思う。
ここではクリエイティブと書いたが、考える時間を持てば
自分が触れる情報が正しいかどうかということを判断する余裕も生まれてくることになる。
その結果、物事を鵜呑みにせずその正否を考えるようになると思う。
この時間を持たずに、仕事にのめりこめば
その仕事に関して極端を極めてしまうんだとおもう。
もちろん、その仕事から派生するクリエイティブなことに気づける可能性は低くなる。
逆に労働時間の割合を減らして考える時間を持てば、
新しいクリエイティブな問題を見つけ出すことにつながるんだと思う。
その点、アメリカにいると西欧の人はやはり自分の中で
仕事をするならここまでというのがしっかりと線引きされている。
もちろん、ある程度の仕事の時間を確保することは当然だけど、
そこに別のエッセンスを加えるために
意識的か無意識的に別のことをする時間を確保している。
日本が成長するには不可欠であった美徳が
さらなる日本の成長にはマイナスであるという皮肉だと思う。
こういうのも政治的策略なのかなと思ったり、思わなかったり。
P.S.
なんとなくどこかをモデルにしてそれを取り入れて発展した国というのは
こういう問題にいつかはぶつかるのかなと思う。
つまり、大きく発展したアジア諸国や中国もいつかは似たような問題にぶつかるのかもしれないと思う。
アメリカ復帰
ずいぶん長い間更新をサボっていました。
実は一時帰国してLAに帰ってきたわけですが、
嫁さんとラスベガス、ロサンゼルスで1週間ほどすごしていました。
久し振りに二人の時間を持つことができて
本当に楽しかったです。
そして、今日のお昼に嫁さんを空港で見送ってからというもの
もっと一緒にいたいという気持ちがものすごく大きくなってしまった。
この気持ちは一時帰国前まではずいぶん抑えられるようになっていたのに
いったん嫁さんと一緒の時間をすごしてしまうと
また振り出しに戻ってしまった。
そのため、ホームシック的な気分が強まっている。
やることは沢山あるのに、どこかにぽかんと開いた穴がある。
やることが沢山あるからこの穴から目をそむけることは簡単にできる。
おそらく、しばらくするとこの穴から目を背けるために
やらなければならないことにかこつけて蓋をしていくことになるんだと思う。
こうやって、僕は大事な感情から目を背けるんだろうな。
少なくともこの週末は、
この気持ちをしっかり味わいたい。
実は一時帰国してLAに帰ってきたわけですが、
嫁さんとラスベガス、ロサンゼルスで1週間ほどすごしていました。
久し振りに二人の時間を持つことができて
本当に楽しかったです。
そして、今日のお昼に嫁さんを空港で見送ってからというもの
もっと一緒にいたいという気持ちがものすごく大きくなってしまった。
この気持ちは一時帰国前まではずいぶん抑えられるようになっていたのに
いったん嫁さんと一緒の時間をすごしてしまうと
また振り出しに戻ってしまった。
そのため、ホームシック的な気分が強まっている。
やることは沢山あるのに、どこかにぽかんと開いた穴がある。
やることが沢山あるからこの穴から目をそむけることは簡単にできる。
おそらく、しばらくするとこの穴から目を背けるために
やらなければならないことにかこつけて蓋をしていくことになるんだと思う。
こうやって、僕は大事な感情から目を背けるんだろうな。
少なくともこの週末は、
この気持ちをしっかり味わいたい。
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