2009年6月6日土曜日

でこぼこ

でこぼこが大事だよなぁ
と最近思うことが多い。

でこぼこといっても
僕以外の人には伝わらないので
ちょっとでこぼこを説明しようと思う。

でこぼこというのは
変化があるということだ。

舗装された道と山の中の道では
山の中の道のほうがでこぼこ。

単一民族国家と多民族国家では
多民族国家のほうがでこぼこ。

会社と大学では
大学のほうがでこぼこ。

都会と田舎では
田舎のほうがでこぼこ。

機械と生き物では
生き物のほうがでこぼこ。

人工と自然では
自然のほうがでこぼこ。

なんとなくわかってくれただろうか?
均一なものか不均一なものかということもできる。
かっちり隙間のないものと隙間があったり遊びがあるものということもできる。
単調なものと多様なものということもできる。

そういったものに共通するのが、でこぼこ。
(と僕はいっている。)

でこぼこがあると、いろんな刺激がある。
自分とあうことも自分とあわないこともある。
でも、いろんな刺激があると考える。

何だろう?
どうしてだろう?
何に使えるだろう?
どうなってるんだろう?

いろんな?が頭の中を交錯して
あるとき?から豆電球に灯がともる。
そんな豆電球を沢山つけて
自分の世界を明るくするっていうのが大事なんだと思う。

豆電球が沢山ともることで
自分が明るく照らされて
くっきりと輪郭が浮かび上がる。
そして、ようやくわかる。
僕は僕、あなたはあなたなんだって。

残念だけど、今の日本ではなかなか難しいと思う。
いろんなものからでこぼこがなくなって、?が生まれにくくなっているから。
?が生まれないっていうのは、ある意味楽園なんだろうけどね。

博士の価値

よく日本では博士号というものに価値を見出さない
ということをいうけれど、何でか考えてみた。

一般的には日本の博士号を持った人は会社で使えないからといわれる。

使えないというのは、
人とのコミュニケーションがとれないということだ。
博士課程で研究をしてきた人は個性的で扱いに困る。
研究のいろはなら会社で教えるから、博士課程を卒業した人である必要はない。

まぁ、そんな答えが返ってきそうだ。
でも、たぶん本当の理由は違う。

博士課程というところは自分で考えた世界初を筋道だてて実現するということを通して、
ものの考え方、まさにDoctor of Philosophyの名前のごとく自分の哲学を養うところだと思う。
だから、個性的だというのは間違った分析ではないと思う。

ただ、日本の会社で必要としている能力ではないのだ。
日本の会社は既存商品を高い水準で同じ品質のものを作ることに重点を置いている。
新しいものを作るにしても既存商品の組み合わせから作る。
それは、あくまで今ある1の価値を10に、100にしていくという仕事だと思う。

そのためには社員が同じようにものを考えて
いろんな考え方を排除して会社の考え方で
会社の目標に向かって走るのがいいのだと思う。

一方、博士号を持っている人は世界初を実現する力を養った。
これは0から1の価値を生み出す力だ。
こんな力、日本の会社には必要とされない。

でも、欧米の会社は違う。
日本と欧米の会社の違いとしてよく言われることは、
会社から新しい商品が出てきたり、
新しい発見の商品化を積極的に進めたりできている。
つまり、0から1の価値を生み出している。

こういった会社では博士号の価値が十分生きる。
欧米ではこういったことを重要視している。

日本の会社が考えたものを
日本ではうまく商品にすることができずに
結局欧米の会社があとから考えて
世界中に商品を提供するということが
日常茶飯事にある。

そりゃ、会社の向いている方向が違うんだから、
こういうことは仕方ないと思う。

仮に日本発のものをもっと世の中に出したいのであれば
もう少し博士という異質なものに価値を見出して
会社の中にいろんな考え方が存在することを奨励すればいいのだと思う。

ものに支配される人間。

人間の生活は科学技術の発展でずいぶん楽になったし
豊かになった。

といわれている。

ある一面ではそれはもう首が千切れるくらい縦に振って
賛成できるんだけど、
ある一面では逆だよなぁと思ってしまう。

というのは、
人間の生活が全部同じになったと思う。
同じっていうと豊かって感じではないと思う。

例えば、日本の一般家庭では、
家には洗濯機・冷蔵庫・テレビがあって
最近ではパソコン・デジカメ・プリンターがあるという。
どこの家庭にいっても似たような生活スタイルがある。

そして、映画を見たり、
お茶をしたり食事に行ったり、
買い物をしたりしている。
どこも同じようなことをしている。

極度に画一化された生活だなぁと思う。

もちろん多少の違いはあるけど、
そんなの目くそ鼻くそに過ぎない。
なんだか誰かに言われて同じような生活をするようになったように
見えなくもない。

どうしてかなぁと思ったら
大量生産大量消費という
画一化されたものを消費するという構造に
原因があるんだなぁと思った。

供給されるものが同じだと
同じように使ってしまうというわけだ。
ある意味、ものによって人間があるルールに
のっとっている感じがする。

つまり、こうだ。
ものに支配される人間。

でも、なかにはものに支配されていない人間もいる。
一見同じと感じることにも
まったく違った使い方や捕らえ方をすることもできる。

テレビを
世の中で何が起こっているかの情報ソースとして受け止めることも、
世の中の人がどういう風な情報にさらされているかという情報ソースとして受け止めることも、
それは使う人の自由だ。

車を
単なる移動するための道具と考えることも
ドライブを楽しむ道具と考えることも
それは使う人の自由だ。

一様に同じものが行き届いた世界では
ついついものという見えないルールにそって生活しがちだけど、
ものに与えられた価値を超えた使い方を考え出してすることで
ものに支配されない生き方ができるんだと思う。

ついつい、与えられたルールに沿って物を使いがちだけど、
少し考えてみてもいいのかなと思う。
そうすることが、豊かな生活への一歩だと思う。

2009年6月4日木曜日

大きなキャンパス。


それから、Stanfordにいって一番思ったことは
めちゃくちゃ大きいということでしょうか。
UCLAが全米2番目に小さいということでそのギャップはかなりでした。
友達のKさんに聞いてみると、アメリカでも結構大きい大学だということでした。

正門からキャンパスの建物までの距離は
歩いて30分。

歩きながら思いました。
こういうのが本当のお金持ちの豪邸なんだろうなぁ。
本当のお金持ちはこれくらいが普通なんだろうなぁと。

まぁ、ちょっと言い過ぎかもしれないですけど、
日本ではありえないスケールでした。

門をくぐった後も
スタンフォードはどこにあるんだ??
ってい思いながら、はじめてきたときは思いました。

というくらい、まだまだ敷地内に余裕のある状況で
まだまだ発展する余地があるなぁと思いました。
ある意味、今のアメリカを的確に表しているかもしれない
と思いました。

P.S.
ちなみにStanford訪問は
直前に決まったことやばたばたしていたため
十分にKさんと連絡を取るのを怠ってしまい、
待ち合わせ時間、場所、連絡先、所属建物、地図・・・
というものを何も決めずに調べずにいってしまいました。

それでも、Kさんとは会えたのでよかったです。
すこし、無謀だったなと反省しつつも、
何とかできるという自信が少し芽生えました。

アメリカの博士課程。

アメリカの博士課程は入り口も中も出口も大変そうでした。

入り口:
アメリカの大学は博士課程に進学するためにも
適正試験を受けます。
いくつかの分野の教授に対して各分野の口答試験をします。
それを2日くらいかけて行うというわけです。

与えられた問題に対しホワイトボードなどを使って
それぞれの専門家の前で説明します。
博士課程に入る前の段階ではこれはかなり大変だと思います。

そして、チャンスは2回。
それがだめなら進学できません。
確率は1回50%。2回で75%らしいです。

そして、自分で指導教官を探します。
指導教官を探すといっても、
教授が空きプロジェクトを持っていないと雇ってくれません。
アメリカでは教授は給料を支払わないといけないですから。
そして、それがないと学生は生活できないですから。

なるほど、こういうのがあるから
学生でも自立していた大人という風に認められるんでしょうね。
学生というだけで軽く扱われていた
僕の学生時代を考えると、その辺の社会認識はうらやましいです。

中:
授業は前回のエントリーに書きました。

研究は基本的に教授の持つプロジェクトがうまく回るように
教授と話し合いながらすすめます。
もちろん、自分からテーマを創出していくことが重要で、
それができてある程度認められるというのが現実なのでしょう。

出口:
博士審査は学外の先生も含めて行います。
といっても、共同研究の先生たちに審査委員としてお願いすることがほとんどなので
実は博士審査をするということが決まれば、
周りの先生たちも研究について納得しているということなので
あまり問題なく審査を通過できるというのは日本と同じようです。
(審査をできるかどうかというところが大変というのも同じです。)

日本の審査委員は指導教官が決めるし、
大体が学内の近い分野の先生が選ばれるので
別の視点からの指摘はあるものの深い議論というのは少ないかもしれません。
(僕の場合は自分の分野を大きく出た部分が大きな結果だったので、
近い分野の先生に審査してもらえて、深い議論ができましたが。)

あと、博士論文は審査前に書くとか決まっておらず
指導教官によっては審査後に書くという風にしている場合もあるようです。
アメリカは随時審査ができるためそういう風になります。

ということで、
大変なのは入り口と中ということになるのだと思います。
特に僕は中の部分の厚みが日本には足りないなぁと思いました。

P.S.
Kさんは口頭審査をパスしたにもかかわらず
最後の仕上げの仕事をしていました。
で、僕は一人彼の部屋で寝て、彼は研究室で研究を夜通しするという状況。
悪いなぁと思ったけど、今までもそうしてきたので気にしないでくださいとのこと。
この集中力には恐れ入る。

勉強不足を痛感する。

先週末はStanfordにいってきました。

目的は、
Stanfordの学生はすごいという前評判を確かめるために
Stanfordで博士課程にいるKさんに会いに行ってきました。

感想はやっぱりすごいなって思いました。
そのKさんはStanfordの中でも秀でている人で
積み上げられた教科書(数百ページはある分厚いやつ)の中に
いろいろな受賞の表彰状が彼のブースには飾ってありました。

彼と話していて思ったことは
あ、勉強しないといけないなということです。

こっちに来てから
日本の研究者よりアメリカの研究者のほうがインパクトある成果を出していることについて
どうしてなのかなーといろいろ考えていましたが、
そんなことを簡単に吹き飛ばされてしまいました。

個人的に勉強をするというのではなく
日本は授業があまりにもお粗末であるというのが問題なんだなと。

UCLAでも授業がわかりやすいし、
授業と実験の組み合わせでうまく理解を助け
実際に授業が終わると実験ができるようになっているというのを
経験していました。

1/4年間、週2、1コマ2時間と短期間に集中して学習するので
だれることなく勉強できる。
宿題をやるためには、自分でしっかり勉強しないと宿題すら解けない。
そういうことはわかっていました。

そういうことを知った上でも、
StanfordではKさんから話を聞くにつれてこりゃすごいなーと感心しました。

何がすごいかというと、
授業の先生がノーベル賞受賞者だったり
アメリカの国策のアドバイザーをした人だったり
世界的権威がものすごくわかりやすく話してくれるということ。
そんな人に普段から触れることで、
変に相手を上に見たりすることがなくなるだろうし、
そういう人たちの考え方が自然とインストールされます。

授業ひとつにつき分厚い教科書一冊分は勉強することになるということ。
そして、分厚い教科書をざっと理解していないと網羅的な知識は得られないというのです。
日本は授業で薄い本を1冊するくらいなのに、それだけでも大きな差です。
そして、分厚いということは説明をはしょっていないということなんですね。

授業で何かの設計をさせて、その性能をシミュレーターで競わせて
そのコンペティションをすること。
コンペティションにより実際の設計などのポイントを抑えるとともに
そこから生まれた新しいアイデアの芽をもつことで
ビジネスなどにつながったりするのかなぁと思ったり。
(Kさんはビジネスを起こそうと考えている人は見たことないといっていました)

博士課程のほうが修士課程よりも必要単位が多いこと。
3年間で90単位とのことで、研究に専念できないじゃないかという気になりました。
が、Kさんは3年で取得しています。

日本だと宿題をみんなで考えてとか友達の宿題を写したりして同じだったりするけど、
そんなことをすると、厳罰が待っていたりとか。
(これはアメリカ全体ですね。)

他多数。

とにかく、日本とはまったく違いました。
確かにこういうシステムだと博士課程はものすごく大変になるでしょう。
でも、それでいいんだと思います。

それに適した人がその資格を得ればいいだけで、
適さない人が資格を得ても後々大変になるだけです。
それなら、そういう人は別のことをやったほうが
よりよい能力を発揮できるというわけです。

つまり、資格は単なる適正試験であるのがいいんだなと。
万人に資格を与える日本では、だから資格の価値が低いんですね。

で、そういう適正なふるいがあるために
人は真剣になれるんだと思います。

日本の大学もいろいろ大変にすれば
学生のまなざしが変わってくると思いました。

P.S.
大学にいけば遊びほうけれるといって受験勉強に重きをおく教育が
一番問題なんだろうなと思います。