2009年6月12日金曜日

支援の仕方。

Las Vegasで勝てない理由
http://ucla-2009.blogspot.com/2009/06/las-vegas.html
400万円の位置づけ
http://ucla-2009.blogspot.com/2009/06/400.html
を受けて。

日本は世界に何の貢献もしていない
ということをいう勘違いをしている人がいるということを聞くけど、
その人たちの考えの根っこは日本が何をしているか知らないということと、
援助される国の人の見たこともない額の援助をするということによる
金銭感覚の問題があるのかもしれないと思った。

確かにODAでお金の支援をかなりの額しているんだろうけど、
ある事を行うためにある国にお金を渡してしまうと、
相手の金銭感覚を狂わせる可能性がある。

普段見ないくらいの額のお金を見たら
どんなにまともな感覚の持ち主でも感覚は来るってしまう。
このお金を懐に入れればとおもってピンはねし始めて
国民にはお金が行かない。

懐に入ったお金を守るために武装を始める。
お金を見せびらかして美人を囲む。
無駄に食べたことのない美食を食べる。
立派な建物を建てる。
・・・
まぁ、単なる想像でしかないの
で間違っていたら申し訳ないのだけれど
こういうことは起こりえなくない。

以前空港で日本に久し振りに帰るおばちゃんと話していたら
アメリカではサプリメントグミを支援している といって
一粒そのグミをくれたのを覚えている。

本当に必要なのは、
生きるための食料であり、水であり、住まいである。
そこに直結したもので支援すれば上のようなことは起こりにくいだろう。
だから、現在もしているそう一多必要なものの支援の割合を増やせば
掲げた支援目標をより効率的にできるのではないだろうか。

お金というのは便利だから使う人の意思次第でどうにでもなる。
だから、日本人は金銭的な援助を行うことが多いのだけど、
日本人が必要と考えるお金を援助してしまうと
お金を使う人は日本人と同じ金銭感覚を持ち得ないのだから、
それは金銭感覚を狂わせる可能性があることを意識する必要がある気がした。

お金の援助をするときは、
その結果をきちんと評価する必要があると思った。

年収400万円の位置づけ。

僕は田坂広志という人のメールマガジンをとって読んでいるのだが、
それを読んではっとさせられることがあったので、
ここに載せてみたい。

インターネットの世界に、
「グローバル・リッチ・リスト」と称するサイトがあります。

自分の年収を入力すると、自分が、いま、世界の63億人の中で、 
何番目に裕福な人間かを教えてくれるサイトです。

そして、このサイトは、
もし、年収4万ドルを入力するならば、
それが、現在の地球に生きる人々の中で、
上から3パーセント以内の豊かな人間であることを
教えてくれます。

これは2004年に書かれた文章ですが、
3パーセントが10パーセントにせいぜい変わるくらいでしょう。

で、日本の平均給料が500万円くらいだということを考えると、
日本って中流階級というよりは上流階級だってことがわかってきます。
そして、世の中には家も家族も衣服も食事も何も足りてない人がいることも
容易に想像できます。

たしかに、僕は旅行を通じてそういう人たちに会ってきた。
でも、それが当たり前とは思わずに
あくまで僕が当たり前でその人たちが経済的に貧しいのだと思っていた。

でも、そうではないことに気づいた。
僕は異常な環境にいる。
そして、世界ランキング的に見てお金持ちなのに
もっとお金もっとお金と考えている自分がいる。

お金持ちがよりお金持ちになるシステムというのは
間違っていないんだと思う。
世の中でお金はお金のあるところに
今この一瞬も集まっている。

そう考えると、今回の世界恐慌というのは
世界的ランキング的に見て小金もちな人たちが経済的に損失しただけで
世界的にはたいした出来事ではないのかもしれない。

Las Vegasで勝てない理由

以前、教授と話をしていて、
Las Vegasはお金儲けのシステムがしっかりしている
ということをいったときに
Las Vegasでなかなか勝てない理由を教えてくれた。
そして、なるほどと思った。

たぶん、Las Vegasでカジノに行く人は
娯楽のためにという人と一儲け使用という人
の二つに分けられると思う。

で、娯楽のためにと思っていっている人のうち
ほんの一握りがお金持ちということだと思う。
でも残りの人は余りお金がない。
まぁ、パチンコ屋さんに並んでいる人と似ているんじゃないかなと思う。
(僕はパチンコをしたことはないけど)

で、大体のパターンは
最初は負けてもいいやという小額で始めて
勝ったり負けたりしているうちに
少しずつ勝つということが多いような気がする。
後で思い返せば、あそこでやめておけばと思うことは
いろんな人にあることだと思う。

ここで、勝ってくると勝つ確率は同じなのに
これはいけるんじゃないかっていう気分になって
大きい金額をかけ始める。

大きい金額をかけ始めると
金銭感覚が自分の中で安心していられる額じゃないので
最初のころと同じように勝ったり負けたりする。
で、この段階では勝ち幅も負け幅も大きくなっているので
手持ちの掛け金が負けに耐えられずに
ゼロになってしまうんだと思う。

それに、躍起になって負けを取り返そうとして
自分の安心する範囲外のお金をかけ始めると
もうそれは悪循環でまた負けに耐えられなくなってしまう
というわけだ。

確率論的にいって期待値を考えると
ブラックジャック以外はやらないほうが良いらしいけど、
こういう心理って大いに影響している気がする。

自分の金銭感覚から一時的に逸脱してしまうということは
大きな金銭的マイナスにつながるんだと思う。

P.S.
これは宝くじで一等賞をとった人の末路が
破産とか出会ったりするというのと似ている気がする。
きっと、自分の感覚が狂ってしまうんだろうなぁ。

P.S.2
ビギナーズラックというのはそういう金銭感覚が狂う前にやめたり
掛け金を慎重に選ぶあたりから来ているのだと思う。
一山当てようというよりも娯楽を楽しむ気分でやったほうが
ずっと勝率は上がる気がする。

2009年6月11日木曜日

愛校心

今日はStanford祭り。

Stanfordの友達Kさんと話しをしていて、
アメリカの大学生が愛校心をもって
自分の大学の服やネクタイを使う気持ちが
少しわかった気がする。

なぜか。

アメリカの大学院は日本の大学院と違ってものすごく大変で
その生活の中に良くも悪くも苦楽が存在する。
そして、卒業をすることに達成感と誇りを覚え、
自分の母校に愛着を持つ体と思う。

考えてみれば、
日本って中学高校の部活動でしごかれた人は
それなりに部活動に愛着を覚えているし、
大学受験を苦労して乗り越えた人は
そのことを誇りにしている人は多い。

でも、大学に入ると
楽園だ、遊んでいいという変な風潮があるため
苦労することが極端に少なくなる。
そうすることで、バイトや遊びに精を出して、
バイトや遊びの部分に誇りを持つ人が多い。

翻って、一時期話題になった愛国心。
物質的に豊かなだけで、
教育はゆるゆるで
基本的に親が敷いたレールを歩いて育つ。
教えないといけないことも教えられない。
必要なことで学生を叱ると親が怒鳴り込んでくる。

甘やかし甘やかされることに慣れてしまった社会。
多感な時期をそんな状態ですごしていては、
愛国心が育つわけがない。

その国で生きることで苦しいことや楽しいことがあって
その上でその国でよかったと思った結果、
国を愛するという心ははぐまれるんだと思う。

そのためには、何でもかんでも規制するのではなく
子供たちがやりたいと思ったことを可能な限り許容して、
自分の力で何かをもがきながらやりぬくという経験が
必要なのかなと思う。

寄付。


これもStanfordにいったときにしったことだけど、
アメリカで寄付というと日本の寄付という意味合いとかなり違う。

日本では寄付というと
本当に寄付。
見返りを求めない援助という感じだと思う。

でも、Stanfordのクリーンルームに入ってKさんと話していたところ
どうもこっちでは寄付というのは見返りなしというわけではないようである。

確かに、Silicon Valleyの会社からお下がりの装置などは
日本で言う寄付という感覚でStanfordにあげているようなのだけど、
最新の設備の寄付となると話は違ってくる。
その設備を使って成果を出して、
その報告をしてもらうという形が寄付ということである。

日本で言うなら投資に近いのかもしれない。
アメリカでの投資はリターンを得るところまで考えるだろうから、
寄付は成果の報告を受けるところまでということになるのだろう。

こういう形でなら、日本の企業も多少は寄付をしてくれるかもしれないなと思う。
お下がりでいいからそれが研究室に入ればそんなに素晴らしいことはないだろう。

で、写真はGatesビル。
ビルゲイツの寄付によって立てられたコンピューターサイエンスの研究棟。
こっちは、Stanfordという格式のある場所に建物を残すことで
後世まで自分の存在を知らしめるということを見返りに思っているといわれる。
アメリカのお金持ちが大学に建物を建てて、自分の名前をつけるという常套手段ですね。

Stanfordはシリコンバレーで発展した企業が沢山あるから
そういう意味で寄付でいろんなものを手に入れている
大学だなぁと感心した。

アメリカの文化


Stanfordの博物館に行ったとき
アメリカには独自の文化がないと思った。

というのも、博物館に入って地図を見ると
ヨーロッパ、アフリカ、オセアニア、アジアといった分類と、
アメリカというところには
今は追いやられているネイティブアメリカンの展示品があった。

ネイティブアメリカンの展示を出すということは
今アメリカといっているアメリカは
出すもの(文化)がないんだなってことにそれを見て思った。

今アメリカ発といえば、
ニューヨークなどであるモダンアートなどが
文化というカテゴリーに入らないのでもないかもしれないが
それもまだ文化と呼ぶには浅すぎる。
アメリカは他の国の文化をもってきて取り入れるしかなかったのだと思う。
そして、それをアメリカといっているわけだ。

つまり、いまだに独自の文化を生み出したことがない。

それに比べ、アメリカ以外の国は
自分たちの文化を何百年何千年とかけて
ゆっくりゆっくり培ってきた。

その文化には伝統という形で魂が宿り
人々はそれを大事にしようとする。
大事にしようとするのは、産みの苦労を知っているからだ。
日本もヨーロッパもみんなそういう意味で近い感覚を持っていると感じる。

でも、アメリカは違う。

自分で文化を生み出したことがないから
文化を創るという苦労をしらない。
ということは、文化を使い捨てにできるんだと思う。
どこかから文化を輸入してはそれを楽しみ、
飽きたら別の文化を輸入してそれを楽しむ。
いい意味では文化を混ぜ合わせることができるけど
悪い意味ではそれを尊重することができない。

だから、アメリカにある文化には魂はなく
その文化が持つ背景などは
すべて切り落とされているんじゃないかなと思う。

たぶん、いろんな文化を見て受け入れて
自分たちの文化を作り出そうとしているのだとは思う。
でも、おそらく文化的には発展途上国なのだろう。
(ちなみに他の部分でも発展途上国です。)

僕は東京という場所にしばらく住んで
アメリカに近いにおいを感じる瞬間があった。
東京はかなりアメリカに占領されているんだなと思う。

P.S.
ネイティブアメリカンの展示を見てすごく親近感を覚えました。
天狗のような展示や妖怪のようなお面が沢山あって
まるで日本の展示を見ている錯覚を覚えたくらいです。

やっぱり、同じモンゴロイドなんですね。
P.S.2
でも、ニューヨーカーは文化を切り捨てないけど、
日本人は経済などが苦しくなると簡単に文化を切り捨てる
というように感じる人もいるようだ。

2009年6月10日水曜日

冷静に情報を見るために

メディアの流す情報は国を問わず
感情をあおるような形での情報の流布を行っており、
それは明らかに情報を受け取る人の冷静な判断を邪魔している。

感情的に情報を見てしまえば、
過去にあったオイルショックや取り付け騒ぎを誘発する危険性がすごく高い。
こんなの衝動買いをさせるテレビショッピングとかとなんらかわらない。

冷静な判断をするためには、
一歩引いて客観的に情報を扱えるようにならないといけない。

客観視をするためにはひとつのソースからの情報を感情的にとらえるのではなく、
複数のソースからの情報を知ることが大事だ。
そうすることで、相対的に互いの情報を比較することができるようになり、
自分の中で自己責任でどう考えるかということを選択できるようになる。

情報が間違っているということはそこまでないとしても、
情報をどういう切り口で表現しているかは明らかに違う。

仮に、どんな質の情報でもいいから何が起こっているかを知れれば十分
というのなら知らないのとあまり変わらないのかもしれない。
ただ、大きなメディアの情報を知っていれば
世間で共有する情報を持ち合わせることができるということくらいだろう。

感覚的には、司馬遼太郎の竜馬が行くを読まずに
坂本竜馬は薩長同盟を実現したというくらいのことを知るのと同じだろう。

ひとつの情報ソースからだけでは
その情報が、問題の核心を突いているのか、
問題の尾ひれの部分を拡大しているのかは
知ることができない。

すくなくとも全体像を捕らえるためには
いくつかの異なる情報を手に入れることが必要だ。
といっても、それはそれでいくつかの情報ソースをそろえて
それぞれを吟味する時間と労力が必要なので、
なかなか骨の折れる作業だけど。

こういう意味で
いろんな民族のいろんな意見がまとまりなく存在するアメリカは
日常生活を通して、
情報を冷静に見るという能力を上げようと思えば
あげることのできる環境なのだと思う。

自分で選ぶ

アメリカは良くも悪くも自己責任が重要になるなと思う。

自由の裏に存在する義務ということはよくあるけど、
義務とかそういうものでもない気がする。
自分のみは自分で守るとかそういう部類の考え方だと思う。

とにかく身の回りにあるものや情報は
信用ならないものが本当に多いから
自分で選ばないといけない。

製作者の側の問題ということはやはりあるにはあるんだけど、
そんなの多民族国家の統率の取れない国では
足並みをそろえることのほうが不可能だ。

ではどうするか。
世の中には良いものも悪いものもきちんとそろえてあるから、
消費する人がきちんと選んで使ってねということです。

例えば、
アメリカの食品は農薬付けだったり食品添加物が極端に多いものと
そういうものを一切使っていない食品に分かれていたりします。
どちらを選ぶのも個人の自由です。

国が認可している食品添加物は安全だと考えることもできますし、
その認可がものすごくゆるい基準で行われていると考えている人もいます。

大統領がもっともっと国民が消費を加速することを励行していたかと思えば、
そのために経済が破綻してしまうこともあります。
そういうことをしたら経済が破綻するのは目に見えていたようです。

あげだせばきりがないです。

どれが正しくてどれが間違っているなんてことは
正直どの立場・角度から見るかによって変わるのですから、
絶対的にということはほとんどありません。
ということは、ある人から見れば良いことも
別の人から見れば良くないんです。

つまり、自分以外の人の判断というものは
あまり当てにならないし、信用ならないということになります。
他人の判断に従って失敗しても
そんなこと文句言える筋合いではありません。

だから、アメリカでは自分で判断して
選ぶということが重要になります。

ここでアメリカにある問題は
その選択するための情報が自由に手に入らないことですね。
その情報を手に入れるためにも
お金や人が重要になるのですから、
知らない人はなかなか知れないという悪循環になります。

これが格差社会なんだなぁと実感してしまいます。

P.S.
こういうことを感じて思ったことは
アメリカってインドに似ているということです。
インドには、すごく親切な人もいるし親切な人を装ってだまそうとする人もいます。
相手を信用するかしないかは自己責任ということを学びました。

アメリカも基本的には一緒、相手を信じるも信じないも個人の自由。
ただ、アメリカで多いのは対人というより対商品。
その点が難しいと思う。

人相手ならその人から感じ取れるものはあるのだけど、
商品となると製作者と販売者がわかれているので
相手のことがあまりわからないし
きれいにラッピングされてしまえば知識がなければ判断は不可能に近い。

これを考えてフランスの考え方がわからなくもないなって思った。
フランスの田舎は相手の顔の見える商品しかほとんど買わないとのこと。
なるほど、なるほど。

下調べの重要性

一般的には、
人と話をするときは相手のことをしっかり調べてから話をしたほうが
よい関係を持つことができる
といわれている。

でも、僕は初対面の人の情報を先に知ってしまうと
相手と話しづらくなるということを考えている時期があった。

理由は相手のことを一方的に知ってしまうことで
相手のことを知った気になって聞くことがなくなるということと
一方的に情報を持つことでなにか不公平な感じがしていたからだ。

ただ、今回僕の中でその感覚は180度変わった。

やっぱり、人と話をするときは
相手を下調べしておくに限る。

下調べをすることですんなり理解できないことがあっても
時間をかけて勉強してから人と話ができるようになる。
しかも、そのわからないことがあればその人に聞けばいいし、
お互いに共有した情報を持つことで
その情報を土台にした発展した話をすることができるようになるからだ。

それに、自分の殻にこもっていない人は
自分がやったことをしってもらっているとうれしいものだし、
場合によっては、相手に自分のやったことを理解してもらっていなければ
人と話をするのにその相手のことをまったく知らないなんて
こいつは失礼なやつだと思われることもある。

別に難しいことをいわなくても、
単に予習しておきましょうという
小学校のころから言われてきた至極当たり前のことです。

今回、自分の中で何も調べずに話しをして、
なんかばかげた発言が多かったので
これじゃいけないと思ったことがきっかけです。

結論としては一般論と同じですが、
今までと違って一方的に情報を持ったとしても
これからは話せる気がします。

2009年6月9日火曜日

911と9.11


Stanfordに行ったときのことです。
キャンパス内部を歩いていると
やたらに目に付くのが緊急電話の案内。

その番号はというと911なのです。

9.11の陰謀説という情報をあまりに耳にするので、
この911と9.11はかけてあるのかなって思いました。

そこで、Stanfordの友達に聞いたら、
9.11があったから911になったんだよって言ってたんですけど、
それは間違いのようです。

陰謀を仕組んだ人がいたとして、
9.11と911をかけていたとしたら
すごいブラックジョークだなぁと思いました。

考えすぎでしょうか?

義足の女の子

そういえば2ヶ月くらい前にUCLAキャンパス内を歩いていたとき
ある一人の女の子を見ました。

その子はひざから下が完全な義足になっているのですが、
歩き方は実に自然な感じで
西欧人が良くはいているすごく短い短パンをはいていました。

僕はそれを見た瞬間、
すごく自然だなぁ、
こんな技術日本にあったっけ?
あんまりじろじろ見たら失礼になってしまう。
ということを考えました。

でも、その女の子の実に堂々とした歩きっぷりに
目が釘付けになりました。

日本じゃ車椅子に乗っているだけで特別な目で見られるのに
アメリカはそういう点はすごいなぁと思います。

これも異質な人々の集まりの社会からだと思います。

狩猟民族と農耕民族 その4

以前、豚インフルエンザへの対応と言うエントリーを書きました。
http://ucla-2009.blogspot.com/2009/05/t-vsuc-la.html

そこで、日本は豚インフルエンザに悲観的で
アメリカは豚インフルエンザに楽観的と
感じたいうことを書きました。

そして、そのコメントにも書いたのですが、
あるブログでは日本がニュースに対して悲観的ということが
世界の常識のように笑いものにされているということを読みました。
そして、相部屋の中国人はどうしてアメリカ人はこんなに豚インフルエンザに無防備なんだろう
といっていたのを聞きました。

そして、出てきたひとつの結論は結局狩猟民族と農耕民族ということでした。
参考までに過去のエントリーをご紹介。
狩猟民族と農耕民族 その1:http://ucla-2009.blogspot.com/2009/04/1.html
狩猟民族と農耕民族 その2: http://ucla-2009.blogspot.com/2009/04/blog-post_2614.html
狩猟民族と農耕民族 その3:http://ucla-2009.blogspot.com/2009/04/3.html

かいつまんでおさらいをすると、
狩猟民族は論理でものを考えて
農耕民族は経験でものを考えるというものです。

こういう二つの民族に豚インフルエンザの流行の兆しがあるということを
伝えたらどうなるでしょうか。

狩猟民族は得られる情報を元に
豚インフルエンザを分析し始めます。
そして、弱毒性だ死者はあまり出ていない
という情報からそこまで危険ではないと考え始めます。

農耕民族は今まで経験したことのない
豚インフルエンザに対して、
未知の不安に恐れ始めてしまいます。
そして、過去から似たような経験である
スペイン熱の情報を持ち出してきて
そのときの被害と豚インフルエンザを重ね合わせてみます。
そして、広がるととんでもないということを考え始めます。

ちょうど、江戸時代末期に来た黒船の来襲と
同じ感じなのかもしれませんね。

もちろん、これだけが理由ではないのでしょうが、
これもひとつの答えなのかなと思います。

今まで経験したことのないことが怒涛のごとく起こる昨今
農耕民族はなかなか苦しい状況だなぁと思いました。

2009年6月8日月曜日

Clothes Line

(写真はwebから)

性犯罪ということで思い出すのは、
UCLAのキャンパスで行われていたClothes Line というイベントだ。

はじめてみたときは、大量のTシャツが飾ってあって
何なんだろうと思ったのを覚えている。

ものすごくインパクトのある展示だったので、
なにかの主張をしているんじゃないかなと思って
そのとき一緒にいた友達にあれなんだ?ってきいてみたけど、
彼もわからないって感じだった。

そして、後日もう一度いってみると、
やはりそれは主張をしているのであった。
その主張のテーマは、性的犯罪を受けた人の気持ちとかそういうのだった。
Tシャツの色毎に受けた性的犯罪の種類わけがしてあるというものだ。

こういうのは、確かに性的犯罪を受けた人が気持ちを吐き出すのに
すごく重要だと思った。

僕みたいな関係のない人が見に行っても
本当の気持ちは正直わかりえない。
ひどいなぁとかこんなことが本当にあるんだなぁとか思うくらいだ。
そして、犯罪をする人が見たら逆に喜んでしまうかもしれない。

でも、傷ついた人たちが
こうやって少しでも前向きに歩き始める一歩を踏み出す
きっかけにはなるんじゃないかなと思った。
こういう人たちの意見が抹殺されないのは大事だなと思う。

P.S.
身近なものを大量にカラフルに意外に飾って、
人の興味を引くという点でこの展示方法は素晴らしい。

張り紙



最近、マンションのエレベータや壁に
性的犯罪があったという警告の紙が張ってある。
きちんと読んでいないけど、
近くで事件があったのだろう。
どうも、武装している犯人らしく
見かけても近寄るなとのこと。
この辺は安全だって言うことだったけど
やっぱり治安は少しずつ悪くなっているのかもなぁと思った。
というか、こういうのが張り出されるだけ
治安のいい地域なんだなぁと思う。
こういうことが日常茶飯事じゃ
こんな張り紙しないだろうから。
それにしても、
似顔絵の顔が似てなくてよかった。

技術と権力


最近の自動車企業の倒産は生活をしていて
何か影響を感じるということはありませんが、
大きな出来事でしょう。

関係はありませんが、カリフォルニア州で以前、
電気自動車が普通に街中を走っていたのをご存知でしょうか。


面白そうなDVDがあったので
買ってみてみました。
タイトルは「Who Killed the Electric 」です。

僕はこれを買うとき、技術的にはできているけど
市場に出回るにはいろいろな圧力がある
ということかなぁと思って見始めたのですが
どうやら、実際に街中を走っていたものが
回収・廃止されたというのです。

これには正直驚きました。

しかも、電気自動車は各社GM、Ford、Toyotaなど
錚々たる企業が売り出していたにもかかわらずです。

理由は、
消費者の認知、燃料電池、石油利権などが
絡んでいるということでしたが、
まぁ、石油利権が一番の理由だというのは火を見るより明らかです。

なぜなら、消費者に認知されていなくても
きちんと認知している人たちは虜になっていて
回収された後もスクラップにしないでくれと
何年もの間デモをしていたくらいです。

こういう電気自動車に愛を持っている人たちがいる以上
企業にとっては生産しない理由はありません。
そして、インフラも写真に電気ステーションがあったことを示す以上
整っていたことがわかります。

燃料電池は電気自動車よりもエコで燃費がいいということですが、
まだ開発に時間がかかります。
それなら、燃料電池自動車が生まれるまでの間
電気自動車を売り出しておいて問題はないのです。
ハイブリッド車が市場を席巻するのなら電気自動車を販売しない理由は見当たりません。

そして、石油利権。
これは否定の使用がありません。
ドルが基軸通貨でいられる理由が石油にある以上、
石油の価値が下がるとドルの価値がそれに応じて損なわれます。
そして、世界経済に与える影響や石油でも受けている人たちに与える影響は
避けて通れません。

電気自動車の販売が続いていたとして
倒産が避けられたかというとそんなことありませんが、
そういう技術が日の目を見ることで
世の中が良い方向に進んだとは思います。

P.S.
アメリカでは既存権力の利権を脅かすような技術の開発は難しいのかなぁ。
日本でも難しいようですが。

2009年6月7日日曜日

早朝にUCLAで起こった事件


早朝に実験をしていたら、
突然サイレンと警報が鳴り響きました。
最初は実験室は音が遮蔽されているので
あまり気がつきませんでしたが、
静かに実験をしているので何か音がするなと思いました。

扉を開けてみると
ものすごくけたたましい音が鳴り響いていました。
そして、災害発生のアナウンス。

でも、まさかなって思って実験を続けていたのですが、
30分位しても鳴り止まないのでまずいのかなぁと思って
外に出てみると防火扉やら何やらがしっかり閉まっている。

ひょっとしたらひょっとするかも
いや、でもこんな深夜に地震もないのに災害は起こらないだろうと思いつつも
一応、外に非常出口をつかって出てみました。
そして、建物のセキュリティーのところに行くと
セキュリティーの人が2人でいつもどおり話をしていました。
サイレンと警報は鳴り響いているにもかかわらずです。

できいてみると、試験しているだけだよって笑われました。
結局、実験室に戻って実験をしましたが、
その後2時間くらい試験が続いていました。

まぁ、徹夜実験をしていると
いろんな普段経験しないことに出くわしたりするわけです。
基本的には、真夜中の掃除の人と会うというイベントがあります。

徹夜実験マラソン

実は今、徹夜実験マラソンを敢行しています。

どういう内容かというと、
真夜中に実験するということです。

僕の使っている装置は毎日日中は予約でいっぱいで
なかなか使えそうにない状況がずーっと続いています。
でも、その装置を30時間使わないと目的の装置はアクセスさせてもらえない。
しかも、僕はもう1ヶ月(うち1週間は旅行)しかUCLAにいない。

なら・・・ということで
誰もいない深夜帯に実験をすれば、
毎晩10時間程度の装置使用ができるというわけで
徹夜実験マラソンをしようということに決めました。
おかげで、30時間の装置しようのうち23時間を2日で集中的にこなし
暗中模索になりかけた実験に一筋の光明を見つけることができました。
(1日目10時間、2日目13時間、3日目7時間(予定))

そして、今日が3日目。
徹夜実験は修士のときに毎日のようにしていて先生から注意されていらい、
封印していたのですが、解禁してみると楽しいように実験が進む進む。
これも、今1人でUCLAにきているからなせる業ですね。

ちょっと病み付きになりそうですが、
人間的な生活を心がけている僕は今日を最終日にしたいところです。
そういえばここ数年は徹夜といえば
・博士論文の締め切りに追われたときと、
・学生の修士論文のために成果を出してあげるときに
下くらいで自分のためにするというのは本当に久し振りですね。

こうやってリミッターをはずして研究をすると
研究がものすごく楽しくなるのを再確認しました。

最終日しっかり堪能したいと思います。

P.S.
だから、寝ているときは体が集中して寝てくれるわけです。
http://ucla-2009.blogspot.com/2009/06/blog-post_07.html

P.S.2
というか、スケジュールに縛られずに動くことを自分で選択しているから
楽しいんだと思います。

眠っている自分を客観的に感じる。

ここのところ、
眠りがものすごく深い。
といってもおきられないというわけではなくて、
眠りが足りないと(1時間とか寝ただけだと)
明らかに体がまだ寝ているから起きるなという信号を出している。

どういう信号かというと、
・とにかく体が動かない。
・体が熱い。
・頭では動きたくても、気分的に動きたくない。

で、10分くらい動きたいと思っていると
体は仕方ないなぁと思考に合わせて
休むのを中断してくれます。
子供に日曜日、お父さんが起こされる感覚に
似ているかもしれませんね。

で、今はそういう体が欲しがっている睡眠を
十分あげた後の寝起きです。
これは調子よく体が動きそうな予感。
実験頑張ります。